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異性への恋心を大切にして生きてきた昭和の時代を振り返ってみましょう。

思い出される昭和のあの日あの頃

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・利尻の淫乱女の半生。其の一

地下本『藻(くさ)の女』岩本テルの体験告白より。
◇プロローグ
利尻の女01-1
私はもう七十八に成ります。こんな婆さんが、こんなおかしな話をすると「色気違い」
では無いかと思うかも知れませんが、マァ直にあの世からお迎えのくる耄碌婆が、
戯れみたいに念仏でも唱えて居るのだと思って、笑って聞き流して下さい。

それに私は、近頃めっきり足腰が弱くなって、園(養老園)の皆が外へ
散歩に出掛けても一緒に行けず、目も悪くなってテレビも見えませんから、
音だけ聞くのではサッパリ面白くも有りません。
ですから自然と一人でジーっと部屋に座っていると、変なもので、
昔の事ばかりあれこれ考えてしまいます。

それも女の業とでも言うのでしょうか、こんな婆の癖に考える事が娘の頃の事や、
母親の事、そして亡くなった亭主との事や、よその男達との事た、つまり、
男と女の事ばかり想い出して、恥ずかしいけれど、
「ああ随分苦労も多かったけれど、女としてはいい思いも沢山してきたのだなアー」と、
若い頃が懐かしくて、その時のことをあれこれ想い出すのがひどく楽しくもなって来るのです。
やっぱり私は色気違いの婆さんなのかも知れません。

ところで、私の生まれたのは利尻島の沓形という所でした。今は観光客で賑やかに
成ったし、飛行機まで飛ぶようですから、随分変わったでしょうが、私の物心ついた頃は、
貧乏で寂しい漁師部落でした。
私はそこで尋常小学校を終わるまで祖母と一緒に暮らしていました。

私の両親は若い頃から、北海道の「番屋」をあちこち夫婦で渡り歩いて、
出稼ぎをしていました。そして母親の方は、子供を身ごもると、生まれる間際の
大きなお腹を抱えて島に戻って来て、お産をすませて、赤ん坊がオモ湯を飲める様になると、
後は祖母にまかせて、また父親の待っている番屋へ帰って行ったものでした。

私の下に弟が二人と妹が一人居りますが、其の三人もやっぱり私と同じように、
赤ん坊の時から祖母に育てられました。ですからたまに両親が揃って島に戻ってきて、
「テル子抱いてやっから来い」と呼ばれても、一番上の私でさえ、両親が見ず知らずの
他人みたいな気がして、母親の傍にさえ寄り付かなかったくらいです。

私は小学校を終えると、迎えに来た母親に連れられて島を出ました。
それっきり私は一度も島へ帰った事がありませんから、結局あの時が生まれ故郷の
島を見た最後ですし、一生の別れという事になるわけです。
それは今から六十五年前の、私が数え年十三の春でした。

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◇初めての番屋暮らし
利尻の女01-2(旧関家番屋 明治25年築)
一口に言って『番屋』と言う所は、鰊漁場や建網漁場に雇われてきた、
渡り漁師や出稼ぎ漁師達の寝泊りする家で、大抵辺鄙な漁師部落の端だとか
崖下だとか、あるいは岬の先だとかと、不便な寂しい海岸線に建っていました。

私が初めて母親に連れられて行った『番屋』は、北海道のどの辺りに有ったのか、
昔の事でも有り、また余りにも方々の番屋を渡り歩いたので、
はっきりとは憶えてはいませんが、なんでも二丁ほど離れた所に部落があって、
沢地で小川の脇に有った 『建網番屋』だった事は記憶に残っています。

それから、その番屋は横に長くガランとした家で、戸を開けて中に這入ると、
板の間の壁際に、垢染みた万年床が二つ折りに成って幾つも並んでいて、
男の体臭とタバコの匂いと、焼酎の匂いが、ムーッと押し寄せて、
胸が悪くなって困ったことも憶えています。
でも、それも四、五日もすると慣れて平気になりました。

若い衆は、船頭さんを含めて七、八人もいたでしょうか。
年恰好は二十歳過ぎから五十歳近い人も居て、道内の人が主でしたが、
秋田とか、青森とか、内地から稼ぎに来た人もいました。

どこの番屋でもそうでしたが、お互いを呼ぶ時は、決して苗字などは使わずに、
「秋田のお父」とか「根室の利助」とか、生まれた所と名前とて呼び合っていました。
大体出稼ぎ漁師達は家族持ちが多く、渡り漁師達は独身者が殆どでした。

ともかく、夫々に事情があって、出稼ぎや渡り漁師をやって番屋暮らしを
しているのですから、お互いに身内の話はしたがりませんし、聞きたがりも
しませんから、自然と生まれた所と名前とで呼び合うより仕方が無かったのでしょう。

私の父親もその番屋の若い衆の一人で。「利尻の佐吉」と呼ばれ、
母親の方は番屋の飯炊き女をしていて「利尻のおッ母ァ」と呼ばれていました。
つまり私の両親は、そうした夫婦で番屋を渡り歩いて居た訳です。

番屋の若い衆は、毎朝六時頃と、昼と、夕方の四時頃と、日に三回、
起こし船に乗って、「エーホー、エーホー」と櫓や櫂を漕いだり掻いたりして、
沖の建網を起こしに行きます。そして、鰊や鰯の大漁の時は、
沖からそのまま半日がかりで近くの町の市場へ運んだり、
加工工場へ運んだりしますが、あとは大抵番屋でゴロゴロしていて、
博打を遣ったり焼酎を飲んだり、助平話で暇を潰していました。
もちろん、沖が時化て翌朝の網起こしが無理だと見ると、
夜道をかけて町へ女郎買いにも度々出掛けたものです。
利尻の女01-3a
そんな具合で、若い衆の方は呑気なものでしたが、
飯炊き女の母親の方は大変な仕事でした。
朝は四時に起きて飯の支度にかかり、昼、晩の飯の支度のほかに、
頼まれれば若い宗の汚れ物の洗濯をして(その代わり小遣い銭が貰えたからですが)
其の上五日置きに、五右衛門風呂を沸かさなければなりません。
ですから母親は一日一杯せわしく動き廻って、若い衆の晩飯がすみ、
後片付けが終わって小屋へ戻ってくるのは、何時も夜の七時頃でした。
母親は当時まだ三十二、三の女盛りでしたが、やっぱりボツボツ仕事が大儀になってきて、
それで手助けをさせて少しでも楽しもうと、私を島へ連れてきたのでしょう。

私は母親の言いつけ通り、一生懸命に手助けしました。只、風呂焚きは堪えました。
若い衆が交替で這入って、日が暮れてから私と母親が這入るのですが、
風呂に這入るのは気持ちがいいけど、水汲みが大変なのです。

幸いその時はすぐ脇の小川から桶で水を運ぶのですが、大きな釜に一杯にするのは
容易な事ではありません。私なぞは着物の前から裾をビショビショにして、
水汲みが終わると何処でも構わずに尻餅をついて、暫くは動けなかったものでした。

それから、ついでに私達の小屋の話もしておきましょう・・・。
何しろ番屋は男衆ばかりで、女は母親一人ですし、しかも父親と夫婦者でしたから、
これはその後もどこの番屋の親方さんもそうでしたが、特別に気を遣ってくれて、
番屋の横に庇がけをして、夫婦だけが寝泊りする小屋を造って呉れたものでした。

小屋の中の広さは、敷布団を二つ並べて敷けば、後は入口に近い板壁の隅に
柳行李がやっと置ける隙間と、履物を脱ぐだけの土間とが残るだけの狭苦しいもので、
窓もありませんから、昼間でもランプを点けなければ、
用を足せないような暗い粗末なものでした。それでも、寝るだけの小屋ですし、
夫婦が誰に気兼ねなく一緒に寝れるのですから有り難いものでした。

さて、私が母親に連れられて、初めて番屋へ着いた晩の事でした。
生まれて初めての長旅で身体は疲れているのですが気が高ぶって、中々眠れません。
やっとうとうとすると父親が小屋へ戻って来ました。
そして、これも初めて私は、両親のつるむのを見ました。

  1. あの日あの頃
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プロフィール

アヤメ草

Author:アヤメ草
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アヤメ草(万屋太郎)です。
演歌の作詞や官能小説書きを趣味とする、
今年72歳に成る“色ボケ爺さん”です。
何時も私のブログを見て頂き
有難う御座います。

私の別ブログ
“詩(うた)と小説で描く「愛の世界」”
も開設から八年目に入り、
多くの作品を公開してまいりました。
此処にはその中から選んだ
昭和時代の懐かしい「あの日あの頃」
の作品をまとめて見ました。

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