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異性への恋心を大切にして生きてきた昭和の時代を振り返ってみましょう。

思い出される昭和のあの日あの頃

あの日あの時。其の一

私が四年前に始めて書いた「官能小説」もどきの告白文章です。
このに作品をきっかけに私の文筆活動は「作詞」から「官能小説」に変わりました。


~母の乳房と陰毛と~
母の乳房と陰毛と01
私の生まれ育った場所は群馬県の山の中、
今は高崎市に編入されましたが、克っては、群馬郡倉渕村と言うところである。
親達は田舎で百姓を遣っていたのですが、私が12歳の時横浜に出てきました。

日本も戦後の荒廃から抜け出し、高度成長が始ろうとしていた時期で
日本の自動車産業が本格的な国産車を作り始めた頃でした。
横浜に有るN自動車で工員を大募集していたのです。
手先の器用な親父は溶接機等も使いこなし、
農機具の修理も全て自分の家で遣ってました。
そんな親父ですからN自動車にも正社員で採用され、
家族共々横浜に移住してきたのです。

私が是からお話しようとするのは、私が始めて夢精を知りオナニーを経験をし、
女性の身体の秘密の部分に興味を覚え、性の衝動の赴く儘に、
年上の女性とのセックスに明け暮れしていた少年期の「あの日あの時」のお話です。

私は母が28歳の時の子で、その後母は35歳に成るまでの7年間に、
私の下に三人の子供を生みました。約二年半ごとに男女男女と巧く産み分けた物です。

そして私は八年間母から出る乳を飲んで居りました。
普通は二歳頃までには乳離れするはずなのに、
その頃には次の子を妊娠し、農家に育った母は丈夫な身体をしていたのでしょう、
母の乳房からは、八年間いつも母乳が溢れて居たのです。

初めの妹と弟の時は、赤子に乳を飲ませる時に私も一緒に
母の乳房の片方を吸って居たようです。
流石に末っ子の時は母も疎ましく思ってか、余り私を近づけなく成りましたが、
妹が余り飲みが良くない時などは、搾乳器の代わりに、
私にも飲んで良いよと言って飲ませてくれたものです。
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あの日あの時。其の二

~母の性教育~
母の乳房と陰毛と04
父の就職と私の中学入学は同じ春四月に成りました。
小学校の卒業式が済んだ段階で、本格的な引越しとなり。
三月末には横浜の借家に引っ越しました。
初めの家は6帖と4.5帖に台所が付いただけの家でした。
風呂は近所の公衆浴場に行ったのです。
そして寝る時は私と弟が4.5帖に父と母と妹が6帖でした。

父が夜勤の時は小学二年生の弟は母の横に寝かせて
貰ったのに、私は中学生だからと言って
母の傍には寝かせて貰えませんでした。

でもそんな時が気兼ね無く布団の中で
オナニーが出来たのです。
弟が一緒に寝て居るときは、
チンポは弄っても、シコシコは出来ません、
したくなるとトイレに駆け込んで、射精してました。

夢精は隣に誰が寝ていようとも、
毎日の様に有りましたがね。
そして汚れたパンツや下着をどうやって隠すかに
悩んで居たものです。

そしてその日、私が風邪を引いて二日ほど学校を休んだ時でした。
母が洗濯をして居た手を休めて私の枕元に来て。

「伊佐雄、お前も男になったんだね、毎日パンツ汚して居るんだね、
汚れたパンツは洗濯機の下の方に隠して居るようだけど、
皆大人になる時には通る道だから、決して悪いことじゃ無いんだよ、
是からは汚れたパンツや衣類はバケツに水を張って
其の中に入れて置きなね。」
「水に浸して置かないとパンツがきいばんでしまうだよ、汚れたら直ぐ脱いで履き替えるんだよ。」
と注意されました。
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あの日あの時。其の三

~夏休みの帰郷~
母の乳房と陰毛と06
横浜へ引っ越して最初の夏休み、私は8月一杯田舎で
過ごす事にしました。狭い横浜の借家では周りに気兼ねして
オナニーも満足に出来ません。

私達が住んで居た田舎の家は祖父(父の親)の家の敷地にあり?
300坪も有る広い敷地に、祖父母達が住む母屋と向かい合う形で
私達の住む別棟が有りました。私達が横浜に引っ越した後も
其の家は其の侭に残されていたので、何時でも帰れる状態でした。

何れは後を継いでいる叔父(父の兄)の息子が所帯を持つまでは
空き部屋は自由に使っても良い事になってました。
言うなれば田舎に別荘が有る様なもので、私は高校を卒業して、
社会人に成るまで毎年夏休には訪れて居たのです。

ここで祖父たちの家族を紹介して置きます。
祖父、九重郎、当時70歳。祖母、ユキ、当時67歳
叔父、五郎、当時48歳。嫁、君代、当時45歳(元看護婦)
叔父の長男、義巳、当時20歳。次男、幸光、当時15歳。
叔父の一人娘、登美子当時13歳(歳は私より一つ上だが同学年)
現在は、祖父、祖母、叔父、嫁さんの四人は他界して居ります。

因みに私の家族は
父、三郎、当時44歳。母、美代子、当時41歳。私当時13歳。
弟、拓也、当時9歳。妹、綾乃、当時11歳。末の妹、桜、6歳
現在は、父も母も他界しております。
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あの日あの時。其の四

~男に成った日~
母の乳房と陰毛と09
送り盆も済ませて、私の家族や親戚達は皆帰って行きました。
静けさの戻った田舎の家に一人残った私は、
その日も朝から桑摘みに行き、
何時もの様に朝食を済ませ、何時もの様に勉強を
して居ると、従兄妹の登美子が一緒に勉強しようと、
私の部屋にやって来た。

子供の頃は良く一緒に遊んだのに、何故かよそよそしかった
登美子が馴れ馴れしく私の隣に座り込んで、
「横浜の学校ではどんな教科書使ってるの」、
と言って私の教科書を取り上げてペラペラとページを捲って
見ています。そして教科書をめくりながら、

「伊佐雄のお母ちゃん、凄く綺麗に成ったね」
「色白でグラマーで家の母ちゃんとは月とスッポン」
「矢張り都会の人は良いよね」
「私もお嫁に行くなら都会に行きたいな」
「田舎で百姓の嫁には成るなんて、絶対嫌だな」
「伊佐雄のお嫁さんに成りたい、といった昔の言葉は
忘れてないよ」
「私を今此処で伊佐雄のお嫁さんにして呉れる」
と言い出したのです。

「何言ってんだい、今此処で、と言ったって」
「従兄妹同士の結婚は良くないと、母さんが言ってたよ」
「結婚相手は血の繋がりの無い女を選べ、と言われてるんだ」

「如何して従兄妹同士じゃいけないの、周りには一杯居るよ」

「血の濃くなる結婚は、盲目や奇形の子供が生まれ易い
だってよ」

「そうなのかな、それじゃ子供生まなければ良いんでしょう」
「セックスしても中出し、しなけりゃ良いんじゃない」

「中だし、何て言葉何処で覚えたのよ」

「あら、女の子は学校で性教育ちゃんと受けてんだよ」
「中学生にも成れば殆どの女の子は生理があるんだよ」
「だから、男子とは別に保健体育の時間に性教育を受け
避妊の方法も教わるんだよ」
「私だってコンドーム持ってるよ」
「今見せようか」
と言ってポケットの中からコンドームを取り出した。

「コンドーム持って居るからって、使った事なんかないよ、私は未だ処女だよ」
「伊佐雄に処女を上げる為に大切にして来たんだから」
「伊佐雄が毎日オナニーしてるの知ってるよ」

「私みたいなお嫁さんに成りたいと言ってる女が傍に
居るのに一人でオナニーするなんて勿体無いじゃない」

9月で14歳に成る登美子は私よりも耳学問だけは
私よりも遥かに進んで居るようだった。

終始圧倒されぱなしで、何時しか上着を脱ぎ、
上半身裸に成って私に迫って来る。
オッパイも其れほど大きくも無い癖に
と思いつつも私のペニスは膨らんでしまった。

登美子は私の短パンのベルトを緩めるとするりと脱がし
私の下半身を露にして仕舞った。

「あら伊佐雄のオチンチン未だ皮が剥け切れて無いんだ
私が剥いてやるね」
と言って私の亀頭を剥き出しにして上下にしごき始めた。
初めて女性に触れられた私のペニスは呆気なく
果ててしまった。
登美子は軽蔑するような眼差しで、
「皮被りで、早漏じゃ私はお嫁に行く気が無くなったわ」
「バイバイ」と言ってサッサと服を着て出て行ってしまった。
私は完全にプライドを傷つけられて、自信を無くしてしまいました。

もう登美子の顔も見たくないと思い夕飯も食べずに
ふてくされて早くから寝て居りました。
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あの日あの時。其の五

~恵美子と言う女(ひと)~
母の乳房と陰毛と12
横浜に引っ越してきてから半年、親父は
家を新築しました。土地は借地ですが、家は二階建てで
念願の子供部屋が出来たのです。と言っても個室では無く
男の子の部屋、女の子の部屋、夫々が6帖で夫々に
二段ベットがあり机が一人づつ与えられました。
一階には親達の部屋とリビングとキッチンが繋がった、
所謂3LDK、お風呂場も付いていました。

この家を建てるに当たって親達は親戚から大層な借金を
したそうです。当時の事ですから200万円ぐらいだそうですが、
その返済の為に母も水商売(バー)を始めたのです。
そしてその借金は5年足らずで返しきったそうです。
借金を返した時点で母は水商売は症に合わないと言って辞めました。

当時横浜には「進駐軍」のキャンプが沢山あって、米兵が街に
溢れて居りました。その米兵達の性の捌け口を受け持ってたのが
「パン助」とか「パンパンガール」と言われた女達で、
一般の婦女子に性的暴行が及ばないようにした「必要悪」として
売春防止法が出来るまでは、公然とした「米兵相手の売春婦」です。

母の店にはそう言う米兵や其の愛人の女達、
そして色々トラブルが有ると駆けつける警察官らが常客に成って、
皆からママさんと呼ばれ慕われて、自宅にも昼間から、
そう言う女達が頻繁に訪れて
「身の上相談」を持ちかけて来るように成りました。
その相談内容は「米兵から受ける暴力」や「相手を寝取られた」とか、
或いは「下り物が多く成った、性病を移されたらしい」等と
子供には刺激の強い話ばかりです。

そんな女達の中に九州小倉から来ていた
恵美子と言う女性の事を書きます。
彼女は当時22歳で実家は貧しい農家で、稼いだ金は
殆ど日送りしていたそうです。
普段の恵美ちゃんは、地味で礼儀正しく、
堅気の娘と何ら遜色の無い素敵な女性でした。
彼女は私の住む街から少し離れた
山の手の高級アパートに住んでました。
大体そう言う商売をして居る女性は羽振りが良く、
高級なアパートに住んで居たのです。
恵美ちゃんは付き合っている黒人米兵と結婚したいから、
母に親代わりに成って欲しいと言うのでした。
九州の親は黒人との結婚は認めない、如何しても結婚するなら
「親子の縁を切る」と宣告されたそうです。
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あの日あの時。其の六

~千恵子と言う女~
母の乳房と陰毛と13
恵美ちゃんは、普段、化粧も服装も地味な娘さんでしたから、
チョツト見には商売女には見えませんでした。

今日お話しする千恵子さんは当時24歳で大阪出身の女性です。
タイプとしては恵美ちゃんとは正反対で、
ストレートヘアーの恵美ちゃんに対してカーリヘアーのロングで
如何にもアメリカナイズされたセンスの持ち主でした。

セックスする時もスカートも脱がず最小限の露出だけで、
全てを見せようとしなかった恵美ちゃんに対し、
千恵子さんは自宅で寛ぐ時は何時もシミーズ(スリップ)姿で、
ノーパン、ノーブラの時もあり、目のやり場に困る事も有りました。
そんな時ドギマギしている私に気付くと、
「オッパイ触ってみたい」等と挑発して喜んで居る人でした。

千恵子さんは頭が良くて私の勉強も良く見て呉れました。
多分大学には入ったが何かの理由で中退し、
この道に入って来たのではないかと、思われます。
商売女達の殆どは英語は喋れても「読み書き」は出来ない人が
多かったのですが。そんな女達へ米兵の恋人から来る
手紙の代読や代返を千恵子さんはやってあげて居たのです。

千恵子さんは「この商売」は金を貯めるのが目的と割り切って
居たようで、恵美ちゃんの様に「一人を愛する」様な事は無く、
何時も数人の男と付き合ってました。
そして何れは大阪に帰り「洋品店」を持つのだと言ってました。
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あの日あの時。其の七

~母に挑んだ~
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二学期も終わり、成績が上がった通知表を千恵子に見せようとして、
私は彼女のアパートに急いで行った。
普通ならもう病院から帰って居る筈の時間なのに、
千恵子の部屋のドアーには鍵が掛かっていた。
当時は携帯電話など無い時代で、家庭の電話も未だ少ない時代だ、
アパートに住む住人は管理人室にある電話を名刺などに入れる場合は
(呼び出し)045ー○○ー○○○○と書いて居た時代である。
留守と成ると連絡の付けようが無かった。

私は母の店に寄って、
「千恵子が居ないんだけど、母さん、何か聞いてない」と
聞いてみた。母はそ知らぬ振りして。

「何も聞いて無いよ、何処か友達の所にでも行ったんだろう」
と言うのである。

「俺に何も言わないで何処かに行く訳無いと思うんだけどな」

「千恵子にだってお前の知らない付き合いも有るだろうさ」

「母さんが千恵子を何処かに隠したんじゃない」

「私がそんな事する訳無いだろう、変な事言うんじゃないよ」

「伊佐雄に言っておきたい事が有るから、店が終る頃又
此処においで、家では話せない事も有るからね」

「判ったよ、11時頃来れば良いんだね」
私は一旦店を出て家に帰った。
そして色々考えて見た。
私は一つの考えにたどり着いた。
今回の千恵子の失踪は、母が仕組んだに違い無いとの結論である。
恐らくこの数ヶ月母は千恵子に私と別れるように説得を続けた筈だ
そして多分幾らかの金を「手切れ金」の様に渡したかもしれない。
そして何処か私の目の届かない所に、住まいも仕事も用意して、
引越しの手配も全て母が段取りして、今日の日(二学期が終る)
の来るのを待って出て行かせたのだ。
母は其の位の凋略は遣りかねない。パン助、やくざ者、不良外人
を相手に水商売を遣って来た母なのだから。と

事の真意も確かめない内から、私は母に対して言いようの無い
怒りが湧き上がって来た。
こうなったからには、千恵子の変わりに母を犯しまくって、
滅茶苦茶にしてやると、心に決めた。
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あの日あの時。其の八

~人の世の無常を知る~
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私の田舎、群馬県群馬郡倉渕村(現在はた高崎市倉渕町)は
国定忠治や小栗上野介などに所縁の有る町で、
つい最近テレビで小栗上野介が主人公に成ったドラマがありましたね。

勘定奉行や海軍奉行等の要職を勤めた小栗も
幕末の権力闘争(主戦論と開国論の対立)に敗れ、
反対勢力に、謂れの無い「謀反」の濡れ衣を着せられて、
1869年4月6日43歳の時 水沼川原で家臣とともに斬殺されます。
その水沼川原が私の田舎の近くなのです。
烏川に掛かる水沼橋の下を水沼川原と言うのですが、其処には
石碑が立って居ります。

今日のお話は高校生活最後の夏休み、私は例年に習い、
倉渕村の祖父の家で過ごしていた時の話です。
水沼橋を渡った処に地元の人から「観音様」と呼ばれている
古儀真言宗の寺がありました。
其処では毎年お盆の時に「夏祭り」が催され、屋台の夜店や
見世物小屋、盆踊りが2日掛りで行われて、近在の村人達の
唯一の楽しみだったのです。

私も母が作って呉れた浴衣を着て、従兄妹達と出掛けて居りました。
偶々そこで出会った女性から声を掛けられたのです。

「本家の伊佐雄ちゃんじゃない、私芳子よ覚えてる」
と不意に言われたのです。見れば小学校の時の同級で親戚筋に
当たる分家の芳子でした。

5年も離れて居ると随分変わるものです。でも面影は随所に有り
暫く一緒に居ると昔の様に打ち解けて、昔話に花が咲きました。
そして其の話の中で芳子は、「急性骨髄性白血病」で
お盆が終ったら高崎の病院に戻ると言うのです。
私には医学の知識が無いので其れがどんなに重い病気だかは
その時は知らなかったので、横浜に帰ったら「手紙を書くね」と
其の晩は別れたのです。
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プロフィール

アヤメ草

Author:アヤメ草
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アヤメ草(万屋太郎)です。
演歌の作詞や官能小説書きを趣味とする、
今年72歳に成る“色ボケ爺さん”です。
何時も私のブログを見て頂き
有難う御座います。

私の別ブログ
“詩(うた)と小説で描く「愛の世界」”
も開設から八年目に入り、
多くの作品を公開してまいりました。
此処にはその中から選んだ
昭和時代の懐かしい「あの日あの頃」
の作品をまとめて見ました。

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