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万屋太郎は、帰って来た歌姫朱鷺あかりさんを応援しています!!

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朱鷺あかりさんは、
山形県尾花沢市出身で、1983年に歌手としてデビューされましたが
5年程で引退し、主婦業に専念されて居りましたが、
どうしても歌が諦めきれず、昨年に26年振りで
♪赤い月で再デビューをはたされました。

八代亜紀さんに似た風貌とハスキーな歌声に、
私はすっかりファンに成りました。

新曲
♪あきらめワルツ

♪赤い月

♪鬼灯(ほうずき)

♪粉雪の手紙

の4曲がYouTubeで聴く事ができます。

読者の皆様、有線放送リクエストを宜しくお願い致します。
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昭和の時代は今以上に人情味が溢れていた時代だったと思います。
時の流れが過去のドロドロした性愛関係も甘味な思い出に変えるのでしょうか。
異性への恋心を大切にして生きてきた昭和の時代を振り返ってみましょう。

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~読者の皆様の作品を募集いたします~

読者様の体験談や創作でも結構です。
又読者様の“名前”入りの作品も書いて差し上げますので、
ご希望の方は簡単なプロフィールを
添えてメールにてご応募下さい。
ayamegusa_m@yahoo.co.jp

~このブログの目次です~

◇初夜で判った新妻の性的魅力(5P)
街は浮足立ったクリスマスの喧騒で、いつになく賑わっていた。息子の信義に誘われて、
久しぶりに私は居酒屋の縄暖簾をくぐってみたが、行き場所を失った男たちが、何と多い事か・・・。
一塊、二塊と、サラリーマンたちが肩を寄せ合ってテーブルを囲んでいるかと思えば、
カウンターにだらしなく突っ伏して、酔い潰れている者もいる。

◇妻には有難う!と褒めてやりたい(5P)
私は北関東の地方都市に住まう元公営バスの運転手であった
71歳の男性です(10年前に定年退職)。今は三人の子供達も皆独立し、
自家消費の僅かな田畑を耕し、14歳年下の妻と二人暮らし・・・。

◇愛情一杯の茶封筒(4P)
「おや、これはなんだろうな」
もう年齢的にも、そろそろ身の回りの始末をつけるべき時期が
来て居る事も有り、年末に古い写真や郵便物を整理していたら、
二つ折りにした汚れた茶封筒が出て来た。

◇花の銀座で芽生えた恋(5P)
昭和十五年、(1940年)東京渋谷の駅前で生まれた私は、今年三月多摩川沿いの
静かな川崎の町で七十四歳の誕生日を迎えた。戦中、焼夷弾の降り注ぐ空の下を、
母親に手を引かれ逃げ延びた幼児時代。黒煙が渦巻く天空を覆う、銀色に輝くB29の
爆撃編隊の姿を、私はおぼろげに覚えている。

◇儚く消えた年上の女(5P)
昭和三十七年(1962年)六月中旬の午後五時過ぎ、私は地下鉄銀座駅の
狭い階段を昇り、鳩居堂前の銀座通りに出た。銀座のデパートや商店が
定休日になる月曜日。表通りは閑散としていて、歩く人の姿も何時もより少なかった。
通りを往来する都電の車輪の音も妙にのんびりと響き、蒸し暑い地下鉄から
出た身には、普段と違う静かな街の空気は爽やかに感じる。

◇若き日の少女の純愛(6P)
私の人並み以上の放蕩無頼、女体遍歴の数多い経験は、
その時の彼女(アカネさん)との恥戯によって培われたのは間違いない。
週に一、二度。約二か月間。彼女の青山の洒落たアパートから、
会社に出勤した事も数多くあった。だが福運は長くは続かず、破局が来た。

◇乙女の淫情(5P)
あれはもう、今から45年も前の話しに成るでしょうか。どれほど平々凡々な
人生を歩んでこようと、誰にでも決して忘れる事の出来ない生涯の思い出の一つや
二つは必ず有るものです。勿論、かく言う私にも忘れ得ぬ青春の一コマがありました。

◇満月の夜の欲情(4P)
小豆島は、瀬戸内海に浮かぶ風光明媚な島です。
「二十四の瞳」という映画の舞台になった所で、オリーブの島としても有名です。
大阪や神戸から比較的近いという事もあって、四十年前の当時から、
夏になると浜辺の海水浴場に都会の男女たちがやって来て賑わいを見せていました。

◇湖底に消えた初恋の思い出(5P)
結婚を翌月に控えた娘と、何年ぶりかで故郷の土を踏んだ。
青春映画の一コマのようで誠に微笑ましいシーンなのだが、
微笑ましいとばかりは言えない悲しい思い出が其処にはあった。

◇生まれ変わっても結婚したい(5P)
今年も、もうじき妻の命日が遣ってくる、来年は千鶴の七回忌だ。
あの日も風一つ無い穏やかな日だった。メモリアルホールの煙突から
仄かな煙が青空に向かって、一筋の糸を引きながら荘厳に立ち昇っていた。

◇田舎から来た娘(6P)
母の故郷、福島県の相馬から遠い親戚の娘である十二歳の今井君恵が
始めて我が家にやって来たのは、昭和二十九年七月末のある日、
中学校の夏休みが始まって間もない頃だった。
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このブログの目次です。(2)
◇あの日あの時(8P)

私の生まれ育った場所は群馬県の山の中、
今は高崎市に編入されましたが、克っては、群馬郡倉渕村と言うところである。
親達は田舎で百姓を遣っていたのですが、私が12歳の時横浜に出てきました。

◇本能の赴く儘に(7P)
私が中学生になった春先に、
母は遠くの町の飲み屋に働きに行き、姉も町の看護学校の寮に入り、
田舎の農家造りの大きな家に祖母と二人きりに成ってしまった。
物心ついてから、常に母か姉と一緒に寝ていた私は急に寂しくなった。

◇デキちゃった家出婚(4P)
昭和37年首都東京はオリンピックを目前に控えた建設ブームとか。
しかし私達の住む青森の街は戦前と全く変わらぬ姿を其の侭残していた。
当時私は、まだ19歳になったばかりで、父親と一緒に林業をしていた。
一度山に入れば、小屋に寝泊りして木を切る仕事が何日も続く。
遊びたい盛りの若い男にとって女っ気のない生活は単調で苛酷だった。

◇夢枕に立ったおさげ髪(5P)
うなされていたらしい。ハッとして目が覚めた。
隣りの布団では老妻の時恵が寝息を立てていたが、
私の脳裏には夢の中に現れた女の声と姿がはっきりと残っていた。

◇乙女の心遣い(4P)
昭和33年中学を卒業した私は、大阪へ出て小さな町工場に就職しました。
故郷は、奈良県に近い三重県の名張と言うところです。
今でこそ、新興住宅地となり、大阪への通勤圏内にもなっていますが、
当時はまだまだ田舎そのものでした。

◇昔の臆病少女が今私の妻(4P)
私は昭和24年群馬県の農家の次男坊として生まれました。
少年期を田園風景の広がる土地で育ちました。
田舎の空気は綺麗だし、環境的には良い所です。しかし、何十年も昔の事ですから、
昼間は野に山にと遊び回っても、夜になると娯楽らしい娯楽もなく、
子供にとっては退屈な時間を過ごさねば成りませんでした。

◇未亡人の熱い肌(6P)
昭和37年(1962年)は、ツイストが大流行した年だった。
私は当時19歳、前年に工業高校を卒業して、新子安にある日○自動車の横浜工場で、
一応真面目に働いていた私も、通称「ザキ」と呼ばれる、横浜伊勢佐木町の
深夜レストラン・バー(ディスコ・バーは未だ無かった)のフロアで、夜毎ロックのリズムに乗って、
ツイストを踊りまくっていた流行先取り若者の中の一人だった。

◇友人の母美千代姉さん(7P)
狭く曲折した坂道を下って小さな川の石橋を渡ると、
眼前に鬱蒼と茂る巨木の森が現れ、その森の中に真言宗の××寺があります。
私は門前で、大きな深呼吸を二度、三度としてから、腹を決めて寺の門を潜り、
白い砂利石が目に眩しい境内に足を踏み入れました。

◇色あせたハンカチ(6P)
廊下を往き来する女中たちの足音が、何時になくバタついている。
どんなに忙しい時でも、足音を立てずに歩くことが、私の母である女将によって厳しく
躾けられて居た筈なのに、足音で眠りを中断された私は、布団部屋でサボって居た事を
棚に上げて、一言注意してやろうと不機嫌な顔をしたまま廊下に出た。

◇あの愛をもう一度(4P)
「わたし、やっぱり行けない」
良子はそう言って、私に背を向けた。
列車がホームに入って来た。
「どうしてだ?」
「病床の母を・・・置いてはいけないの」

◇戦後を生きた姉と弟(10P)
私と姉は横浜の大空襲で父と兄弟を失い、戦後まもなく母も病気で亡くした。
(因みに姉は昭和二年生まれ、私は昭和十二年生まれです)
空襲で焼け野原となった横浜の町には、焼けコゲの残った木材とブリキ板で作った。
スラム然としたバラックが林立する中に、どうやってかブリキだらけの小さなバラックを建て、
それもちゃんと二間有ったのであるから、母と姉の根性には感心したものである。

◇吉祥寺に下宿していた頃(8P)
昭和36年の3月、私は待望のW大学の入試に合格して、
胸に大きな夢を抱きながら勇躍上京しました。
下宿は合格発表に付き合ってくれた同郷の一年先輩の方の紹介で、
中央線の吉祥寺駅を降り、徒歩五、六分の、閑静な住宅街の中にありました。

◇我が妻を語る(5P)
昭和7年12月。雪がしんしんと降る夜。私は新潟で生まれました。
父は広島の江田島海軍兵学校卒の、職業軍人だった。
其の父から、立派な武人になるようにと、「武人(たけひと)」という勇ましい
名前をつけてもらった、と母から聞いていた。

◇葬儀屋の女房(5P)
小さい頃は、棺桶の中で遊んだりしていたが、物心ついてからは、
家業が葬儀屋だという言うことにひどく嫌悪感を抱くようになった。
其の思いを決定的にしたのは、小学三年のとき、
級友たちにつけられた「ハゲタカくん」というあだ名だった。

◇珠美の生涯(9P)
先日、同級生が私の出身県の偉い役についた祝賀会があり、
招待状が送られて来たので、珍しく出かける気に成った。
良い思い出の少ない故郷の催し事には出来るだけ出席しなかったのだが、
今回は年を取ったせいか、何となく出席のハガキをだした。
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このブログの目次です。(3)
◇泥沼の中で掴んだ幸せ(3P)
「おい、チョツトそこまで出かけようか」
今朝のことです。家業を長男に譲ってから隠居としての自由を謳歌して
今日はあちらの無尽、今日は此方の集まりと、
滅多に腰を据えることもなく飛び回っております主人が、私を誘ってまいりました。

◇下宿先の未亡人(6P)
昭和36年私が工業高校を卒業して最初に就職したのは。
横浜市港北区(現緑区)中山町に有る中堅の電機メーカーでした。
初めは市内に有る親元の家から通勤していたのですが。

◇生きることへの歓び(7P)
気が付けば、私もとうに人生の折り返し地点を過ぎた年齢と成り、
思い返すともなく過去の日々を、胸に蘇らせる事が多く成りました。
誰の人生にもドラマがあるでしょうが、私の半生も、
それはそれは様々な出来事に彩られた六十有余年でした。

◇セックスレス夫婦の今と昔(7P)
人の一生を平均八十年とするならば、私の人生は八合目を過ぎた辺りかも知れません。
女六十、波乱の人生続きで、これまでさまざまな劇的出来事の連続でした。
私は昭和二十年、横浜の下町で生まれました。其処は横浜で唯一、
鳳神社が有る遊郭街の近くで、実家は雑貨屋兼タバコ屋を営んでいました。

◇姉の千恵子と伯母の喜美代四十歳(5P)
裏の森で木の葉ずくが鳴く時代の初夏の頃の思い出話をしてみようと思う。
夜の鳥の声も聞こえず、のんびりとしていた村も今や街と化してしまったが、
性に痺れるような興味のあったあの時代がたまらなく懐かしく思うのは
私一人だけだろうか。

◇柿田川慕情(6P)
現在恵美子59歳、雄二65歳、二人は30年近く前までは山梨県の
甲府市で小さな工場を経営していた。
主力取引先の「中堅音響機器メーカー」 の下請けとして従業員20名を抱え、
かなり忙しく仕事をしていたのだった。

◇買出しに来た都会の女(8P)
あまり性能の良く無いラジオに耳を寄せて、阪急対金星の職業野球を懸命に聞いていました。
まだプロ野球という呼称が浸透せず、職業野球と戦前のままの言葉を使う人が多かった、
終戦後間もない頃の事です。

◇後藤の家に米を借りに行く母(4P)
婿養子の父が、単身赴任先で女を孕ませたことで、
激怒した祖父は、母や祖母の意向にはお構いなく、両親を離婚させてしまった。
ところが、その直後に祖父は脳溢血で他界してしまったのだ。
祖父が急逝したときに母が三十四歳、祖母が五十二歳だった。

◇消えた夫と支えてくれた男(6P)
いまを遡ること、五十年近く前の話になります。当時、私も花も恥らう、
二十歳そこそこのおぼこ娘でした。女学校を出て、実家の家事手伝いをしていましたが、
「美代子、おまえもそろそろ嫁に行け。柳沢の家からも、
  早く美代子を寄こせと矢の催促だ。来月、祝言を挙げる事にしたからな。
 そのつもりで、準備をしとけ」

◇若衆入りの儀式(15P)
私の生まれ育った村は(島)は百七十戸の漁業関係者と三十戸あまりの米作農家があり、
私の家は島では珍しい部類の農家に属していた。元々島は度重なる海難事故で
屈強の若者が水死して男女の人口比率が女性過多だった。

◇惨めな初体験(5P)
コンビニエンス・ストアを出た私は、広い通りを横断して、数十メートル先にある
大きな公園に向かった。風は冷たいが陽気は良い。見上げる三月中句の空は青く、
高い位置のうろこ雲の下を白い飛行機雲が一筋、西に向かって描かれていた。

◇若き日の少女の純愛(6P)
その早朝、私は面妖な夢を見た。能面の鬼達が、太鼓を打ち鳴らしながら舞い狂う、
石川県能登の郷土芸能[御陣乗太鼓]の夢だった。
御陣乗太鼓は私の好きな演太鼓の一つで、二十数年前に再婚妻と能登を旅し、
曽々木海岸のホテルでその演舞を見た経験がある。

◇マゾ女の誘惑(5P)
べつに都会の女を気取っている訳でもなさそうなのに、妙に気だるい雰囲気を色濃く
持っている女だった。歳は三十前後だろうか。切れ長の目をしたやや面長の美人で、
しかも体つきもかなりのグラマーに感じられた。ただ煙草を吸ったりコーヒーカップを
持ったりする時の何気ない仕草が、なんとも気だるく投げやりな様子だった。

◇14歳年下の女。シリーズⅢ(6P)
主人公  柴田知恵瑠55歳(旧姓中田知恵瑠) 横浜生まれの横浜育ち。
熊本県の過疎の村の診療所を振り出しに、現在は長崎県の離島に有る診療所の女医。
島の住民は“知恵瑠先生”と呼ぶ。

◇忘れ得ぬ二人の女(5P)
昔、晴れた日の東京の三多摩地区の夜空は、いつも満点の星空だった。
無数に煌く星々と月の輝きで、夜空はビロードのように滑らかな濃紺色。
天の川もはっきり見えて、家族団欒夕食中の家の中には、
星より近い明かりを求めて、クワガタやカブトムシが迷い込んで来たものだ。
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このブログの目次です。(4)
◇色ごのみ(8P)
今年71歳になる私は処女のまま最初の夫に嫁ぎました。
今時の娘さん達には信じられない事かも知れませんが、当時は処女で嫁に行くのが
当然であり、結婚するまでは純潔を守るのが女の嗜みだったのです。

◇家族愛ー私と母と妹と・・・(9P)
私(68歳)の若いころの思い出をつづって見ようと思います。
5年前に80歳で亡くなった母と、遠くで暮らす2歳年下の妹に想いをはせながら・・・。
当時私は大学3回生、父は五年前に仕事場の事故で亡くなって、
短大一年生の妹の久美と、母・純子(四十二歳)の三人で暮らして居りました。

◇ぐうたら息子を改心させた母と妻の謀(5P)
私は横浜の色町と言われた真金町からそう遠くない、華やかで妖しい臭いの漂う街の、
小さな小料理屋に生まれ育った。板前だった父は私が三歳の時に病死したから、
私にはほとんど父の記憶はないし、母もあまり多くを話したがらなかった。

◇暗い過去を背負った継母(6P)
人には言えない暗い過去・・・長年生きていれば、誰しもそんな過去の一つや二つ
あるものでしょう。もちろん私にも人に言えない過去がありました。
私は三十年前まである商売をしていました。私の場合の暗い過去とはその商売でした。
当時、私は夜な夜なホテル街に出没しては、男を拾って金を貰う毎日を送っていました。

◇老いて益々盛んに(6P)
13年前に60歳の定年で、35年間勤めてきた大手印刷会社を退職した。
そこで、それまで少しずつ貯めてきた貯金と、印刷会社からの退職金で、
四世帯、各室2DKの二階建てアパートを建てて、余生の生活に入った。

◇ヒツジノエキス(6P)
昭和37年(1962)19歳の春、親父と何度も衝突の挙句。家を飛び出して
、故郷を遠く離れたY県Y市のパチンコ屋に住み込んだ。そのパチンコ屋に毎日現れる
一人の女性と親しくなった。19歳の私にとっては母親のような『綾乃』と言う飲み屋の女将。
私は何時しかこの女性に、母親をダブらせながらも女を意識するように成っていた。

◇姉妹との契り(6P)
美人姉妹の処女を奪った男が居る。なんとも羨ましい限りだ。
姉と妹はよく似ているもので顔立ちもそっくりならば、体つき、前戯でのウブな反応。
そして膣穴の具合までウリ二つ。だが、快楽に浸ってばかりは居られなかった・・・。

◇田舎から来た若い叔母(4P)
30年ほど前、東京の大学に合格し、群馬の田舎から上京、夢と希望とそして
不安の渦巻く独り暮らしが始まりました。内気な私は、なかなか友達が出来ず、
講義が終わるとすぐアパートに帰り。読書に耽ったものです。
其の一方、性欲に悩まされ、昼夜を問わずオナニーせずには居られませんでした。

◇残り物には福が有る(4P)
もう二十五年程前になるが、母と親戚の法事に行った帰り、
駅に着くと車内では気が付かなかった春雨が降っていた。
まだ宵の口なのに気温が下がってきて、喪服姿では肌寒さを感じたので、
私は風邪気味の母を気にしていた。

◇山の分教場の女先生(3P)
昭和33年11月の事です。田舎の冬は、駆け足でやって来ます。
私は自衛隊を退職して田舎に帰り、山仕事に就いていました。
馬を使って木材を運搬する仕事です。いわゆる馬車引きです。
何時もは同僚二、三人と仕事をしていますが、その日は私一人でした。

◇真実の愛(4P)
壁際の暖炉がチロチロと燃え、妻の裕子がピアノを奏でるショパンの調べを、
ソファに腰を下ろした私がブランデー片手にゆっくりと聞き入っている。対面のソファでは、
妻によく似た一人娘の由美恵が孫娘と一緒にファッション雑誌を広げて寛いでいる。

◇疎開先の粗末な小屋で(4P)
父の実家は、田畑と山林が数十町歩もある大農家で、父はそこの三男でした。
しかし、職業軍人だった父は終戦前後の混乱のために北支戦線で行方不明に成っていました。
シベリアに抑留され、生きている事が判ったのは、終戦から五年も経ってからの事でした。

◇波乱の夫婦生活(6P)
現天皇陛下ご夫妻は昨年ご成婚50周年を迎えられました。
同じ時代を生きてきた夫は、二年前に脳梗塞で七十四年の生涯を閉じました。
先日、夫の三回忌を済ませましたが、悲しみは癒えるどころか、益々深くなるようです。
長年、人生を共にしてきた夫と私のあいだには、切っても切れない絆が存在していました。

◇高度成長時代の最中に(7P)
三十五年以上も前の思いで話です。
ガラガラと押さえ目に入り口のガラス戸が開く音がした。
夜の十時が廻った今時分誰だろうと身構えた。
「あたしだよ」と障子を開けて叔母の豊子が畳を這って、私の布団の側に近寄ってきた。

◇渡世で出会った女三人(6P)
昭和39年は、いろんな事があった。まず東京オリンピックだ。
オリンピックが日本で開催されるのが、初めてと言う事も有って、日本中が五輪一色。
終わってみれば金が16、銀が5、銅が8とメダルラッシュであった。
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このブログの目次です。(5)
◇夕暮れの作業小屋で(5P)
昭和四十四年十月の事である。私は結婚していて、長男が八月に生まれたばかりで、
まだ禁欲中だった。女房は産後の日が浅く野良仕事が無理なので、
私一人で家里離れた山の田圃で稲刈りに精を出していた。
気が付いて見ると辺りは薄暗くなってきて、帰ろうと思って道路に駆け上がった。

◇わが3P体験記(5P)
群馬県の神流川砕石場での実績が買われ、私は親戚の砕石工場を任されて、
再び単身赴任で田舎の山峡に引っ越して来た時の話である。 山の砕石工場には、
三人の事務員が居たが、一番歳かさの律子と言う私より三歳年上の女がいた。
丸顔で垂れ目の如何にも男が好きというタイプの女だった。

◇北行きの夜汽車で出会った女(6P)
この歳になっても、時折昔の嫌な夢にうなされて夜中に飛び起きる事があります。
明日が銀行の決済日なのに、口座には僅かな金しか残っていない・・・。
そんな強迫観念に押しつぶされそうに成っている夢です。
私は寝汗をびっしょりかいた上半身を起こし、荒い息遣いをしていました。
ふと見下ろせば、妻が傍らで軽い寝息を立てています。

◇両手に花の果報者(10P)
私が22歳の時同じ時期に付き合っていた亜矢子と奈緒美に共通していたのは、
共に私より二歳年上の24歳で有ったことと、身長が163センチ、体重は訊かなかったが、
肥満でも痩身でもない中肉の体型で、昭和40年頃の地方都市では、
男並の大柄な女で有ったと言う事だ。

◇母娘(おやこ)丼の記(5P)
母娘(おやこ)丼と言うと、普通は母娘別々にSEXするのが当たり前の様だが、
私の場合は同じ夜に二人と関係を持ったのだった。
それは30年前の事で有るが妻の妹が市大病院に入院した。

◇男の器とチンポのデカさ(6P)
不況もこれだけ長引くと、不況という気がしなくなってくる。これが当然なのだと言う気分
とでも言えばいいだろうか。もっとも私は、あまり不況を肌で感じたことは無い。
幸いなことに、仕事は滞ることもなくそこそこ動いているし、それに、時代錯誤の考え方
だとは思うものの、裸一貫で身を起こして以来、儲かるということの方がむしろ異常、
身の程に過ぎた収入は、得られる事の方が変だという考え方が身に染みてしまってる
せいもあるだろう。

◇マコ18歳と40男の私(4P)
私が生涯に出会った女性の中でマコちゃんほど痛快な女の子は居なかった。
あの自由奔放な生き方、30年近く経った今でも鮮やかに思い出す。
これは私とマコちゃんの楽しかった頃の記録である。

◇利尻の淫乱女の半生(14P)
私はもう七十八に成ります。こんな婆さんが、こんなおかしな話をすると「色気違い」
では無いかと思うかも知れませんが、マァ直にあの世からお迎えのくる耄碌婆が、
戯れみたいに念仏でも唱えて居るのだと思って、笑って聞き流して下さい。

◇年上女の包容力(5P)
村上須賀子(仮名)は、当時私より八歳年上の三二歳でした。
イタリアのカンツォーネが好きで、陽気で人の好い女でした。
とくに美人と言うわけでもないのですが、なかなか愛らしい笑顔の持ち主でした。
そしてふっくらとした如何にも抱き心地のよさそうな体つきをしており、
どうしてその歳まで独り身でいるのが不思議なくらいでした。

◇29歳の処女妻(7P)
取引先の浜田さんが自動車事故で急死したという言う知らせを受けて、
取る物も取り敢えずその通夜に駆けつけたのが昭和61年の晩秋の事でした。
浜田さんとは商売上の取引関係で知り合ったのですが、
彼とは(馬が合う)とでも言うのか、生前は一緒に良く女遊びをしたことがあり、
色々な思い出が有りました。

◇戦後を生きた母と私と妹と(10P)
母君代は二十歳で嫁に来て、二十一で私幸一を生みました。其の二年後に弟が生まれましたが、
三歳のときに流行り病で死んでしまい、そして其の翌年に生まれたのが、妹の佐智子でした。
私の父は佐智子が生まれると直ぐ召集され戦死してしまいました。
残された家族は父方の祖父母と母、それに私と妹の五人家族でした。
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